桶狭間合戦への前哨戦 ─動乱が続いていた尾張と織田信長─
名古屋の歴史と文化を 訪ねる旅①
■今川が大軍を率いて出陣!信長は熱田で戦勝祈願
今川義元は、尾張制圧の拠点とすべく、鳴海城に岡部元信、大高城に鵜殿長照(うどのながてる)といった重臣をおいた。これに対して信長は、鳴海城の周囲に丹下砦・善照寺(ぜんしょうじ)砦・中島砦を、大高城の周囲に鷲津(わしづ)砦・丸根砦・氷上(ひかみ)砦を築いて包囲する。こうした砦は、攻城の拠点として築かれるもので、付城(つけじろ)と呼ばれている。
このとき、鳴海城と大高城からは、今川義元に後詰(ごづ)めの要請がされたのだろう。後詰めとは、敵の背後に回って攻めることをいう。つまり、織田方の付城を今川方が包囲することで、鳴海城と大高城を救援するという戦術である。
永禄3年(1560)5月12日、ついに今川義元が大軍を率いて駿府を出陣し、沓掛城に本陣をおく。兵数は2万5000という。一方の信長は、岩倉城の織田氏を滅ぼしたばかりであり、しかも、尾張一国をすべて支配できていたわけでもない。動員できた兵は2000ほどとされる。

合戦前夜の清洲城イメージ
軍議をほとんどせず、早々に打ち切った信長は「帰宅候へ」と家老たちを帰したという。
5月19日早暁(そうぎょう)、今川軍が、大高城の付城に対し、一斉攻撃を開始した。この報告を受けた信長は、自ら先頭をきって清洲城を出陣すると熱田社(熱田神宮)で陣容を整え、戦勝祈願をした。そして、この熱田社から桶狭間方面に向かったのである。

熱田神宮に寄進した「信長塀」
出陣前に熱田神宮で必勝祈願をした信長は、戦勝のお礼として土塀を寄進した。名古屋市熱田区神宮

【信長の台頭と桶狭間へのルート】

有松の街並み
旧東海道鳴海宿と池鯉鮒宿の中間で茶屋集落として江戸時代に発展。風情が残る。
<信長の武運あやかりスポット!>
■徳川家康の命で移転した大須観音
日本三大観音の一つ。当時は美濃にあり、水害から蔵書等を守る目的で移築させた。(名古屋市中区大須)
■[名古屋名物!]コンパル大須本店のエビフライサンド
老舗喫茶店の代表的メニュー
名古屋市中区大須3-20ー19
コンパル/☎052ー241ー3883
■勝利祈願をした日置神社
信長が勝利の返礼に千本松を寄進したという。(名古屋市中区橘)

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